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【社員インタビュー】 忘れ得ぬ人、仕事 /前編  ~子安次郎~

 BOØWY、ウルフルズといった日本の音楽史に燦然と輝くアーティストを歴任してきたディレクター、子安次郎。東芝EMI時代から現在のユニバーサル ミュージックに至るまで、常に時代と共に走り続けてきた「伝説のA&R」である。彼の仕事哲学とその流儀には、エンターテインメントに携わる、すべての者に響くヒントがあるはずだ。全4回にわたってお送りするスペシャル・インタビュー、第1回は音楽に目覚めた幼少期から、自由な環境で豊かな感性を育んだ青春期、そして人生の師とも言える大滝詠一氏との出会いまでを聞いた。

▲子安次郎: EMIミュージックでA&Rを務め、ユニバーサル ミュージックではマネージング・ディレクター、執行役員を歴任。現在は社長直轄エグゼクティブプロデューサーを務める。
本記事のサムネイル画像はウルフルズのトータス 松本氏による子安氏の似顔絵
本人がこれまで仕事で手掛けたり、人生で影響を受けたりした作品の数々。全て私物。
これらの貴重な品々を挟んでインタビューは実施された。

自由な環境で育まれた柔軟な心

――子安さんは1956年生まれですね。一番最初の音楽体験というと何になるでしょうか?

 母が映画や音楽――それもどっちかというと洋楽、そして本が好きだったんです。とてもハイカラな人でしたね。父は音響工学研究者で、研究所と学校で教えたりなんかしていました。父は完璧な放任主義で、ほとんど話もしたことがなかったぐらいだったので、僕は母からすごくいろんな影響を受けました。母は赤ちゃんの僕を背中におんぶしながら家事をしていたそうで、その時台所のラジオでFEN(※)を流していたようです。僕が生まれた1956年って、ある意味時代の変わり目の年でしたよね。「ロックンロール」って言葉が生まれたのは1955年と言われていますが、当時、日本のFENでもおそらくそうした新しい時代の音楽が流れていたんだろうなと。もちろんパティ・ペイジやハンク・ウィリアムズなどのカントリー・ミュージックも多かったと思うんですけど。意識もしないで聴かされていたものが最初の音楽体験だったんだろうな。ちなみに母はちょっとクールな感じのフランク・シナトラよりも、ソフトな声のビング・クロスビーの方が好きだと言っていました。ビング・クロスビーのクルーナー・ボイスは大滝詠一さんのボーカル・スタイルにも繋がっていますね。大滝さんの書生を始めたころ、家の中で大滝さんのレコードをかけていたら、大滝さんのことはまったく知らない母から「この人はいい声してるね。きっと成功するね」と言われたことを鮮明に覚えています。

※FEN……在日米軍のために放送されていたラジオ放送。当時はここから洋楽に興味を持った人が多かった。

――最初に自ら好きになったアーティストや楽曲はありますか。

 ミッシャ・エルマンというバイオリニストが演奏するシューマンの「トロイメライ」と、ピアニストの名前は忘れましたがショパンの「雨だれ」。幼稚園ぐらいの時のことですが、家にこの2枚のシングル盤があったんですよ。それを毎晩母親に、「ベッドに入ったら聴かせてくれ」と頼んでいたことを覚えています。だから最初に意識したのはクラシック。そのほか、『ザ・ヒットパレード』とか『シャボン玉ホリデー』といったテレビ番組は見ていましたし、歌謡曲はもちろん、村田英雄さんや春日八郎さんだって好きで聴いてたし、ロカビリーも聴いてたし、洋楽も自然に流れてきてた。ジャンル関係なくなんでも聴いてたんですが、それが将来、大滝(詠一)さんに出会うひとつのきっかけにもなったのかな。大滝さんもノンジャンルの人でしたからね。
 自分でお金を出して初めて買ったのはザ・サベージの「この手のひらに愛を」やザ・スパイダースの「夕陽が泣いている」が入っている4曲入りEP盤。ザ・サベージはあの寺尾聰さんがいた伝説のグループで、後にディレクターとして自分が寺尾さんの『Standard』というアルバムを担当することになり、いまだにご縁が続いているんですけど、その根っこはこのレコードにあったんですね、きっと。そのほか、植木等さんとか、映画だと『サウンド・オブ・ミュージック』とか。マイク眞木さんの「バラが咲いた」が好きでウクレレで弾いて歌ったりもしていましたね。
 小学校から高校までは自由な校風が特徴の、12年一貫教育の学校で学んだのですが、良い先生や先輩たちとの出会いによって自分の性格が形成されました。
 大学は法学部に進んだんですけど、途中から大学には行かないで福生(当時大滝詠一氏が住んでいた場所)に行き始めちゃう(笑)。

――1975年のことですね。

 はい。大滝さんはその年にナイアガラ・レーベル(※1)を始めて、シュガーベイブの『SONGS』と、大滝さん自身の作品『NIAGARA MOON』をリリースします。そして6月9日に伝説のラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』(※2)の放送が始まるんです。月曜日の深夜3時からというとんでもない時間帯にやってる番組だったんですけど、1回目はキャロル・キングが人に提供した曲を1時間流すという特集の回でした。カセットテープで録音しながら毎週聞いてたんですけど、深夜ですから途中で寝ちゃったり、どうしても録音できない回があったりもしてね。だけど、当時赤坂にあった大滝さんの事務所に行けば、番組の録音テープが借りられるというサービスがあったんですよ。それで私が持ってない回のやつを借りに行ったんですけど、借りて、ダビングして、また返しに行くっていうのを繰り返していたらスタッフとも顔見知りになってね。そのうち「子安くん、実は事務所でも録り損なった回があるんだけど、それ持ってない?」って言われて「あ、持ってます」ということでやり取りが始まって……そしたらある日「ところで、君、暇?」と訊かれて。大学にはほとんど行ってなかったんで「まあ暇ですよ」って答えたら「ちょっと人手が足りないんで、手伝ってくれない?」って言われたんです。

▲ラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』でオンエアされた曲をすべて書き留めたノート。
大滝詠一研究の資料としても大変貴重。

※1 ナイアガラ・レーベル……大滝詠一が主宰していた自主レーベル。「大きい滝」の代名詞であるナイアガラの滝から命名。

※2 『ゴー・ゴー・ナイアガラ』……1975年~1983年までラジオ関東、およびTBSラジオで放送されていた大滝詠一氏がパーソナリティを務める音楽番組。氏の3作目の同名アルバムは本番組をアルバム化するというコンセプトのもと作られた。

師・大滝詠一から学んだ「もの作り」の精神

――そこから大滝詠一さんの「書生」として働き始めるわけですね。

 そうです。書生は僕の他にもあと2人いて、3人とも全員『ゴー・ゴー・ナイアガラ』のリスナーっていう共通項がありました。まあ、とにかく書生なんで、基本雑用なんですよ。なんでもやる。スタジオの掃除から、食べ物の買い出しから、運転手まで。夜通しのレコーディングもよくありました。ある時なんて夜中に急に「おい、木魚持ってこい」って大滝さんが言うんで、スタジオから近かったフジテレビまで借りに行ったことがありました。守衛さんに「すいません、小道具の部屋はどこでしょうか」って、いきなり聞いて。そしたら守衛さんが「あ、ちょっと待ってね」って中に入ってって「あったあった、これでいい?」って、木魚とそれを叩く棒を持って出てきたんです。「これです。すいません、一晩貸してください」って言ったら「あ、いいよ。また明日戻しといてね」って感じで。いい時代だった。それで「木魚持ってきました!」って大滝さんに言ったら「うん、これだ。よし」って、ポンって叩いて、それにエコーをつけて、“ぽよん”っていうアタック音を作った。当時はシンセサイザーがそんなに出回ってる時代でもないし、音は全て自分で作らなければいけない。今みたいに、ネットで色々調べられたりする時代じゃないから、とにかく洋楽のレコードを聴いて、これはきっとこういう風にやってるんじゃないかとか想像しながらトライしてみるということで。いいエコーを録るためにエコーと言えばお風呂場だ!ということでわざわざ風呂を沸かして、そこにヴォーカリストが裸で入って歌ったりもしてね(笑)。

――クリエイティヴで刺激的な日々ですね。

 はい。だから苦しいとか大変だとかいう記憶はないです。まあ、大変だったことは忘れてるんだろうけどね。大滝さんのところでは音楽的な何かを勉強したというわけではなかったけど、あの空気を共有できたっていうことが良かった。それがディレクターになってからの人生に、ものすごくプラスになってるんだろうなと思います。

――真剣にものを生み出す精神に触れた。

 だから大学を卒業するときには、このまま大滝さんのところにいさせてもらおうかなと思ってたんですけど、78年にナイアガラが一旦解散することになりまして。それで慌てて就職活動をすることになるわけです。エピックソニーとビクター、東芝EMIを受けたけど、制作や宣伝はどこも競争率が高くて、エピックとビクターは落ちて、東芝EMIだけは一番競争率が低そうな営業を狙ったら作戦成功で受かりました(笑)。

 入社後、営業では、当時あった上野支店に配属になりました。将来ディレクターになりたいなら、まず3年間営業の勉強をしろと当時の支店長に言われたんですけど、そこでもまた素晴らしい出会いがありました。受け持ちの店は40数店あって、その中で一番大きいのが池袋の『五番街』(※)。ここに加納常務という人がいたんです。加納さんには本当にいろんなことを教えてもらいました。
 まず、店の売り上げ――何が売れてるのかを見せてくれるんです。そのデータを見てみるとヒット曲の売り上げは意外に少なくて、カタログ(発売から一定の期間が経った作品)が多い。店の売り上げを支えているのは幅広いカタログだということがわかったんです。当時はCDはまだなくて、レコードとカセットだったんですが、カセットの売り上げが伸びてきていた。加納さんは「時代が変わってきているよ。カセットを必要としている人がいっぱいいるんだよ」と言って、データを見ると世の中が何を必要としているのかがわかると教えてくれました。店ではなく、店の向こう側にいる人を見ろ、ということですね。
 商品を店頭に置くにしても、普通はセールスマンが言ってきた数字(枚数)を店の方で少し削るんですよ。確実に売れるような数字にね。でも、加納さんは「セールスマンが提示してきた数字をそのまま取れ」ってお店の仕入れ担当者に言う。セールスマンが自分で決めた数字なら責任を持って売るだろうって言う論理なんです。それでお店の売り上げも上がる。
 お店の一部分の商品ケースをなくして試聴室をつくり、そこで新譜試聴会をやったりアーティストを呼んでイベントをやったりしたのも加納さんのアイデアでしたね。当時としては画期的でした。
 そんなわけで、3年間営業をやってから制作に異動になったんですけど、営業時代に「世の中を見る」ことの大切さや人の気持ちの動き方を教わったおかげで、それがディレクターをやる上でもすごく役に立ちました。

※五番街……現在の『CDショップ五番街』。池袋の東武百貨店の中にある独立系販売店。

( Text by 美馬亜貴子 / Photo by 杉浦 弘樹 foto.Inc )