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【社員インタビュー】 忘れ得ぬ人、仕事/ 後編  ~子安次郎~

BOØWY、ウルフルズなど数々のヒット作品に関わったA&R 子安次郎が語る社員インタビュー第二回。「忘れ得ぬ人、仕事 後編」では、ディレクターとして多忙を極めた時代の出来事について語ってもらいました。( 前回までのインタビューはこちら

営業からディレクターへ。奔走する日々

――3年間の営業を経て邦楽制作部門に異動になったのは1982年のことでしたね。

 そこから私のディレクターとしての歩みが始まりました。最初はアシスタントなので先輩ディレクターにイロハを教わるわけです。曰く「アーティストっていうのは孤独で不安なんだぞ」と。まずやらされたのは、レコーディング本番が終わり、歌手やミュージシャンや事務所のスタッフが帰った後に、レコーディングブースに入って歌を歌うことでした。ヘッドホンをした途端にこちらからは会話ができなくなるんですけど、ブースの向こうでは先輩ディレクターとエンジニアが何か話してるのが見えるんですよ。きっと俺の悪口を言ってる。そうとしか思えないんですね(笑)。先輩はそういう心理状態になるのを知ってて「だからディレクターは歌を録り終わったら、すぐに(トークバック)ボタンを押して歌手と話をしなきゃダメだ。ちょっとでも間が開くと中の歌手は不安になる。不安にさせちゃったらいい歌なんて録れっこないんだ」って。だから「早く、優しく、褒める」が大事なんだと教わりました。
 歌手が歌う歌を自分でも歌ってみることとかもね。ディレクターって「ちょっと君、そこ、さっき息が切れてうまく歌えなかったね」なんてダメ出ししたくなるけど、自分が歌ってみたらそんなところはうまく息継ぎできる場所じゃないとか、その曲がどういう性質の曲なのかということがわかる。それがわからなければディレクションなんかできないとね。
 この先輩ディレクター、今なら絶対パワハラで訴えられるような人でね(笑)、アーティストやミュージシャンはもちろん、スタッフ、アレンジャー、作曲家、作詞家とか事務所の人……いろんな人がいる前でとにかく怒鳴りまくるんです。「子安、なんとかしろ! 子安!」「子安、コーヒー! 子安!」「子安、譜面! 子安!」って。でもこれがね、後々なんて優しい人だったんだろう!って思ったんですよね。と言うのは、僕はその後正式なディレクターとして一本立ちするわけですが、現場で会う人会う人に「子安と申します」って自己紹介すると「知ってるよ、あの子安だろ」ってみんな覚えてるんですよ(笑)。「お前、あの時いっつも怒鳴られてたな」って言われて、ほとんど自己紹介がいらないぐらいだった。これは助かりました。もしかしたら先輩はそういうことまで考えてくれてたのかもしれないですね。
 そんなわけで、アシスタント時代は川島なお美さんとか中井貴一さん、羽賀研二さん、由紀さおりさん、薬師丸ひろ子さんを担当させてもらったんですが、1984年、ディレクターとして独り立ちするタイミングで出会ったのがBOØWYです。

 最初はちょっと斜に構えてるというか、怖そうな人たちだなと思いました。初めての顔合わせの時に「子安さん、今まで何をやってたんですか」って訊かれて、「薬師丸ひろ子さんとか」って言った途端にみんな椅子から落ちそうになってね(笑)。「俺たちロックなんだけど……」って。「この人、本当に俺たちのことわかってくれるのかな」と思ったでしょうね。
 BOØWYは最初のレコーディング(※)をベルリンでやったのがよかったですね。言葉はほとんど通じない、右も左もわからない、初めての海外レコーディングでお互いを信頼するしかない状態だったからね。実はベルリンに行く2日前にうちに長男が生まれて、すぐに1ヶ月くらい留守にしちゃったんで、帰ってきたらもう子供が大きくなっててね。「いや~大きくなった」って言ったら「何もしないで大きくなったわけじゃないわよ」ってカミさんに怒られました(笑)。

※最初のレコーディング……3作目のアルバム『BOØWY』(1985年発表)のこと。

――ディレクターにもいろいろなタイプがあると思うんですけど、子安さんはどのようなディレクターを目指していたんですか?

 本当にいろいろなタイプがいますからね。「私はこうだった」と言ったところで逆もまた真だし。僕自身はこういうディレクターになりたいとか考えていたわけじゃなかった。とりわけBOØWYの時は必死で、とにかく走るしかなかったんで、結果は後からついてきた、みたいな。次から次へと何かをやらなきゃいけないので、メンバーと一緒に走るしかない。だからこの頃は睡眠時間がとんでもなく短かったです。メンバーはレコーディングが終わったら、次の日のために寝ますけど、その間にこっちは会社員としてやることがありますからね。よくあんなに寝ないで生きてたなと思います。常にパスポートを持ち歩くのが当たり前みたいな生活で、世界中飛び回ってました。BOØWYの最大のヒット・シングル「マリオネット」のカップリング曲としてカバーした「ワイルド・ワン(※1)」に本家のスージー・クアトロのヴォーカルを入れるために、僕は1人でBOØWYの演奏したマルチテープを持って、スージーのいるロンドンまで行きました。金曜日の夜に彼女と確認が取れて「今ロンドンにいるから、ロンドンに月曜日に来てくれるんだったら歌える」っていうので「わかりました。行きますからお願いします」って言って、急遽旅行代理店の人に「とにかく今からロンドンに行くからチケットを取ってくれ」って。そしたら成田→香港→ボンベイ→サウジアラビア→ロンドンという南回りで30数時間もかかるとんでもない便を取ってくれて(笑)。スージーには2テイク歌ってもらって、そのテープを日本に持って帰ってきて朝までにミックスダウン(※2)を終わらせて、それを明け方に御殿場の工場に持っていかないと間に合わない。本当にギリギリでした。でもそのシングルが大ヒット! 綱渡りの人生だけど、まあ、面白かったですね。

※1「ワイルド・ワン」……女性ロック・シンガーのパイオニア、スージー・クアトロ1974年のヒット曲。1987年、BOØWYのラスト・シングル「マリオネット」のカップリングに収録された際、氷室京介の歌にヴォーカルを重ねる形で本人が参加して話題になった。

※2 ミックスダウン……各トラックのバランスや音質の調整など、楽曲の仕上げ作業。

「墓参り」で掴んだウルフルズの大ブレイク

 その後、BOØWYが解散してヒムロック(氷室京介)も布袋(寅泰)くんもソロになって、ヒムロックがポリドールに移籍するちょっと前ぐらいのタイミングで、大滝さんから呼び出されました。何かと思ったら赤坂のホテルに2時間監禁されて説教された。BOØWYが成功して、氷室も成功して、会社の中では売れてるディレクターになって、業界でもそれなりに名前が知られるようになっていたわけですが、多分この辺でちゃんと自分を見つめ直さないと、私がこの後ダメになるんじゃないかって大滝さんは心配してくれたんじゃないですかね。自分ひとりで「ヒット」を出したなんて、勘違いするなよという親心かと。そして説教といってもそこは大滝さんらしく、まずは相撲と野球の話から。「相撲の世界では先代の貴乃花は千代の富士に負けて引退を決めた。その千代の富士は次の貴乃花に負けて引退したんだ。つまり相撲界は次の世代へバトンタッチしながらうまく続いていっている。しかし川上哲治から4番とスターの座を受け継いだ野球の長嶋(茂雄)は、次のスターが入る前に辞めてしまったんで、それが野球が低迷する原因になっているんだ」と言って「とにかく世の中はな、全て“流れ”なんだ。バトンタッチを失敗した世界っていうのはダメになるんだぞ」という「バトンタッチ論」を力説してね。「俺たちの世代は団塊の世代で数も多く、パワーもあり、いつまでもやり続けられると思い、バトンを持って走り続けてきたけど、そろそろ疲れてきたから次に渡そうと思って振り返ったら、ほとんどついてきている人がいない。だからお前たちはバトンを受け取ったら、すぐ次の世代に渡さなければならない。それがお前たちの使命なんだ。過去から受け取り、未来に渡していくことが大事なんだ」と。

――新陳代謝を促して業界全体を活性化させないと文化は育たないということですね。

 そう。そしてこの「バトンタッチ論」の次に言われたのが「墓参り」話。「新しいことを始めるときはまず“墓参り”をしろ」ということです。お墓というのはもちろん象徴的な意味なんだけれども、「どんなアーティストもいきなり生まれたわけじゃなくて、必ずルーツがある。どんな凄いアーティストも突然変異ではなく、過去の何かの影響を受けてきて今があるんだ。プレスリーだって、ビートルズだってそう。だから新しいことを始めるときには、そのアーティストがどういう影響を受けてきているのか、そのアーティストの原点が何なのか、まずはそれを把握することが大事なんだ。それを把握していなければそこから先の方向を判断することができない。ぶれない原点があり、今があり、それらを結んだ線の先がこれから向かうべき方向になるんだ。だから原点と現状を把握することで今後のいろんな選択肢の中から正解を選ぶことができるんだ」という論理です。それを大滝さんは「墓参り」と表現していました。これは先ほどの「世の中は流れである」ということと同じことで、「世の中はすべて必然であり、偶然ではない」という大滝さんの持論にも繋がるんですね。そしてこのことはその直後にウルフルズを担当した時に痛感しました。彼らを担当するに当たり、大滝さんから教わったことを思い出し、まずは「ウルフルズとはなんぞや?」っていう「墓参り」することから始めました。ウルフルズは関西出身で、ギター・バンドで、歌詞が大事で、R&Bが根っこにあると。そしたらこのバンドをプロデュースできる人は関西出身でギタリストで作詞もできて、R&Bに詳しくて、バンド(ごまのはえ~ココナツ・バンク)経験がある伊藤銀次さんしかいないという結論になるわけです。それで銀次さんにプロデュースをお願いしました。この伊藤銀次さんのいた「ごまのはえ」というバンドを東京へ連れてきて、プロデュースしたのが大滝さんだったわけで、ウルフルズというバンドを銀次さんがプロデュースするのであれば、銀次さんの原点である大滝さんの楽曲をウルフルズが取り上げるのが「必然」的な流れであると考え、大滝さんの作品の中でも最もR&B色の強い、ウルフルズのルーツでもあるスワンプ・ロックの流れをくむ「びんぼう」という楽曲をカバーすることになりました。このアイデアを大滝さんに話すと、「とてもいいアイデアだけどウルフルズがやるなら、今の時代感が必要だから」と言って、すぐに新たな4番の歌詞を書いてくれました。これは常々「カバーが大事なんだ!」と言っていた大滝さん流の「正しいカバーのやり方」を直接教わった瞬間でもありましたね。そして次にやったのが大滝さんの「福生ストラット」をウルフルズ流にカバーした「大阪ストラット」のリリース。「福生ストラット」が初めてリリース(1975年)されてからちょうど20年の節目でした。これも大滝流の“必然”ですね。でもなかなか思うようには売れなくて、折に触れて大滝さんに相談したりしてね。スタジオに来てもらった時はメンバーに向かって「君たちは、すごくいいから。もうちょっと頑張れば絶対成功するから」って言ってもらったりもしました。そこで踏ん張ったことで彼らの良さがじわじわ伝わり始めて、最高に、思いっきり振り切ったところで出てきたのが「ガッツだぜ!!」(※)というわけです。

※「ガッツだぜ!!」……1995年リリース、ウルフルズ大ブレイクのきっかけとなったシングル。この曲と翌年リリースの「バンザイ~好きでよかった~」を収録したサード・アルバム『バンザイ』はオリコン1位を獲得、バンド史上初のミリオンセラーとなった。

( Text by 美馬亜貴子 / Photo by 杉浦 弘樹 foto.Inc )


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